どうも
Outrigger Lab 代表の小林(@outriggerlab)です。


先日、某SNSでの友人たちとのやりとりが面白かったので備忘録も兼ねてこちらに記載します。

なお、諸事情により友人はイニシャルで表記しています。

ちなみに登場するKさんもMさんも、「絵画」を主軸に広島や県外で活動している作家さんです。


それは何気ない「問い」から始まった


小林デジタル全盛のいま、「絵」や「写真」をお金を払ってまで場所を借りて展示することに、一体どんな意味があるのだろうか?
純粋かつ単純な疑問。


Kさん:そうだなあ、、それわかるけど、まだわからんなあ、、


小林:うん、ね。
こうなってくると「展示」とは?「表現」とは?みたいな
そもそも論に発展して行きそうだ。


Mさんものを作る人間がいつでも"実物"や"ナマのもの"を見たいと思っているから、ではないでしょうか。
だから自分が表現したものを人に見てもらえる場に出したいし実物として具現化させたいのではないかと。
うまく言えないですが私の認識だとそんな感じです。



「問い」が「問い」を生む。"ナマ"とは何か?


小林:「絵」における"ナマ"とはどういう状態なのでしょう?
例えば仮にそれが〈質感〉や〈空気感〉といったものの場合、それはデジタルでは伝わらないものなのでしょうか?
いや、それらが「統合」されたものが"ナマ"で、だから"実物"が観たいということなのですかね?


Mさん画面越しでない"手で触れられる距離"が必要なときもある、というのが近い気もします。
デジタル絵でも人が画集を買う理由もそこにあるのかなと。

視覚だけでなく体感で人がなにかを感じ取りたいときは対象が実像である、自分と同じ次元にいることでより認識の度合いが強まるのかもしれないです。

関係ないかもしれませんが、幽霊の事を思い出しました。
目で見て触れるものなら信じられる、という考え方もきっと大切なものなのだと思います。

そこに確かに在るのに誰にも認識されない状態や概念を幽霊と呼ぶのだと思うので、実像を持たない=幽霊かと言うとちょっと違うんですが、うーんうまく言えない。
実物と画面上のデータを比較するなら、電話で話してる時と直に会って話してる時とじゃ伝わり方がまるで違うのと似てる気がする。

なんだか攻殻機動隊やカイバやマトリックスの話ができそうだ。
実像としてのからだと世界は必要なのか?とかなんて。
面白い問題提起をされるとついつい遊んでしまう



「本」と「電子書籍」にみる『アナログ』と『デジタル』の話


小林同じ次元にいることで認識の度合いが強まる=認知レベルが上がるというのは肚にスッと落ちました。

例えば"匂い"とか。

電子書籍があるけど、紙の本が未だに強い現象に近いのかもしれませんね。
ボク自身、電子書籍ではほとんど文章を読まないですが、本っていう物質が好きです。
新書や古書の匂いだったり紙の集積だったり。
それでも紙の書籍は売り上げは年々減ってきているようで、反面電子
書籍はKindleが読み放題を始めたり、一般の方向けの新しいサービスなどで盛り上がっているようですが。

「絵」や「写真」も少し変容が必要なタイミングなのかな?となんとなく考えてしまいました。

実態がない=幽霊=デジタルデータってのも
イコールではないかもしれませんが非常に面白いですね。


Kさん:そうねぇ、、有名無名別にして、展示。というスタイルはなくなってないとこに、紙の本がなくならないのと通じる何かあるのかな?

変化は必要かもね。とはずっと思ってる。



ローカル地域も変化していかないと全体の変化に置いていかれる


小林:「展示」は、というより、"ナマ"の「絵」や「作品」がそうかな?という認識がある。
一定数供給があって、ある程度の需要=観にくる方がいらっしゃるという点では、類似しているのかも。
あとは「習慣」が変わっていないってのもあるのかもしれない。

「作品」の変化というよりも「展示」のカタチが変わっていく必要があるかもなと、ぼんやり思う。
デジタルにも寄り沿ってハイブリッドに意識を寄せて、双方向的に「習慣」を変えていくというか。
前にKさんがやってた、影で遊ぶプレートとかガチャガチャとか、ああいうコトが必要なんだよなぁというイメージ。
それこそ、フェイスペイントなんかはそういう意味ですごく今の時代にバッチリハマった、優れたコンテンツな気がする。


Mさん生き物は自分自身の肉体という環境を引き連れていないと世界を認識できないという性質?があるので、自分と相対するものにもそれを求める傾向はあると思います

幽霊の話もそうですが、まだ受け手がデジタルにうまく適応できていないということなのでしょうね。

だから、アナログでの受信かデジタルでの受信かどちらか選ばなきゃいけないみたいに感じると。
なのでKさんの仰っていたようなハイブリッドな表現と受け手の受容性は今後アートに限らず様々な分野でウィークポイントになってくるような気がします。

私も紙の本が好きです。
頁の感触、捲る音、重み、表紙の手触り、真新しいインクの匂いや古びた黴(カビ)臭さ、目と文章との距離などの全て備えてはじめて"読書"という行為になるのだと感じているので絵や作品や展示もそういった実体を備えているからこそ向けられる愛情を人から注いでもらえるものが作れたらいいなあと思っています。
ごちゃごちゃ長くなったので支離滅裂かもしれませんが、また色々お話させてください。


小林:内容が少し逸れるかたちですが、「肉体」を「環境」に含めるって考え方は面白いですね。
ボクは”自分自身以外”を「環境」って認識しているので、新鮮に感じました。

原始を考えれば、デジタルの歴史は1世紀とちょっと(?)程度ですから、適応できていないというのも無理はないのかもしれませんね。

人間もとい生物が実態である以上、アナログからは逃れられないと思っています。
デジタルは相反するものと考えるよりも、あくまでもそれを助長してくれるものとしてあるという考えの方が生産的かもしれませんね。

だからこそ、ハイブリットな表現の過渡期を生きているボクたちの世代がつくるものはもっと変容が必要かなと。(AIとか人工知能とかとは別に)

もちろんそれは、受け手=鑑賞者にも求められる面もあると思います。
Mさんのおっしゃる“読書”のお話ではないですが、制作者や作品以外も含めた、総合し統合された”なにか”が、文化を形成していくものなのかなとも。

正直ボクも書きながら、何が言いたいのかわからなくなってきました(笑)が、色々なお話ができて面白いです。ぜひまた。


* * *

この話はここで終わりました。



結局結論は?


こういう「問い」はもしかすると
答えなんて出ない、もしくは答えがとらえにくい禅問答のような「問い」なのかもしれません。

それぞれが"考える"ことに背をむけるのではなくて
一度捉えて咀嚼し"考える"ことで、いろいろな答えが出て
それが混ざり合って、また新しい答えを出す。
そういう混沌の中から「文化」というものが形成されていくものなのかもしれませんね。



最終的に話が多角的で複雑になっていき主題から逸れていってしまいましたが
この話はまた時と場を改めてしたいなと思っています。


それでは、また!




 




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